そもそも木遣(きやり)という言葉が「木を遣(や)り渡す」、すなわち「木を運ぶ」とか「木を移動させる」という意味であることはよく知られていますが、『人倫訓蒙図彙(じんりんくんもうずい)』(元禄3、1690刊)や『和漢三才図会(わかんさんさいずえ)』(正徳2、1712)などの昔の本にも、リーダーが采配を振るようすとか、大木を大勢で曳いている図が入って説明されています。
木遣唄(きやりうた)とはその作業のときに声をそろえて歌う唄で、大木や岩石を運搬するときに、みんなの力を1つにするために歌わなくてはならない労働歌だったのです。
その歴史の中で、徳川家康による江戸入府以来、江戸の建設のために全国津々浦々から労働者たちが集まってきました。
幕府による江戸城下町の建設には、江戸城の改築より始まり、大名屋敷や寺院の建立など、多くの土木建築の工事が行われるこおっとなり、そのためにあらんかぎりの職人が江戸に入ってきました。
江戸に行けば仕事がある、食うには困らないということで、建築・土木ほか、あらゆる職種の人びとが、江戸に向かって移動してきたのです。
そういった人たちが、自分の国から、いろいろなものを江戸にもちこんできたものの1つが労働歌でした。
自分の地方で仕事しながら歌っていた唄、田植えとか稲刈りなんかのときに歌っていた地唄を、そのまま江戸に持ち込み、江戸の仕事をしながら歌っていました。
そのなかで、とくに山から木を伐り出すときや、重い物を移動したりするときに、みんなの力を1つにするための素朴な掛け声のような歌が、建築の基礎を固める地形(じぎょう)のための鳶の作業唄として歌われるようになったのです。
重い材木を運びだすときに唄われた「木遣唄」が、江戸における土木作業での鳶の「木を遣る唄」となっていったのです。
そして、享保年間以降は鳶が町火消も兼ねることになったことから、鳶と火消が歌う「江戸木遣」となって幕末までつづいていったと考えられています。
全国の労働歌が江戸に集まってきてことにより、江戸で次第に整理されてできたのが江戸木遣となり、現在も歌われている曲の題名も、「田唄」「日光」「酒田」「越後」「軽井沢」など作業の名前や地名のがたくさんあるのです。
源をたどれば、その地方からもってきた歌が江戸木遣として今に伝わり歌われているのです。