木遣りは労働歌の一つとして、始りは諸説ありますが、木遣り唄として1202年(建仁2年)に栄西上人が京都の建仁寺を建立する際、重いものを引き揚げる時に掛けさせた掛け声が起こりだとされています。
作業唄として自分の名前を掛声にし、「エイサイ、ヨウサイ」としたものが、「エイサ」「ヨイサ」になりこれが掛声の始まりとも伝えられています。
その後、全国各地で唄い広まり、戦国時代には木材の伐出(ばっしゅつ)や築城の際に息をあわせるために歌われるようになったと言われています。
江戸時代に入ってからは、江戸城の築城にともない連れてきた材木商が川並(かわなみ)(筏師/材木業者)に伝えたものといわれています。またその他にも全国各地から江戸に集まった労働者達により、多種多様な労働歌が江戸に持ち込まれ、これらが元となり江戸木遣り発展に繋がったと言われています。
その後も掛け声が時代の流れにより歌へ変化し、江戸鳶もだんだん数を増やし江戸風を広めていきました。
その木遣り唄も元来は作業歌として、大勢で息を合わせて木材など重い建築用材を引っ張る「木曳き木遣」と、造成地の土台固めをする「地形木遣」に大別されます。
「木曳き木遣」は材木商の労働歌として木遣りの歴史の始まりとともに歌われた唄ですが、「地形木遣」は江戸を中心に発達したものとなります。
また江戸において、木遣りは土木関係の鳶の人達の木芸となり、祭礼のときに山車を曳きながら歌うことから、祝い事にも歌われるようになり「祝儀歌」としても発展していったのです。
近代では建築様式の変化と相まって、木遣地形も減少し、昭和年代に入ると木遣りは祝儀歌として祭礼や上棟式などで僅かに歌われる程度で、曲題も限られたものに偏る傾向となりました。
兄木遣「アニ」と弟木遣「オト」に分かれて交互に歌詞を歌うが、口伝によって受け継がれてきたことと、譜が五線譜にのらないため、稽古は本棒(落ち棒)によって拍子のリズムを会得しながら、歌詞に記号符号を書き込んでいく方法で発展していったのです。
木遣りの種類としては、木遣りの基本となる「地物」のほか、仕事の区切りを意味する「くさり物」、くさりの間に用いる「端物」、「大間」、祝儀ものの「追掛け物」、棟上げを主とする巻き上げて運ぶ際に用いる「巻物」、道中の長い時に用いる「流し物」、側受けの鳶が疲れた際の「手休め」などがあげられます。